第9回 ハマータウンの野郎ども
【9-1】学校に反抗することは格差社会への順応に繋がる?【ハマータウンの野郎ども】
1977年に書かれた本
もともと文化人類学などで、特定の地域や社会集団にしばらく入り込んで観察する方法
この本はインタビュー的な手法と併用されている
大学教授であるポールウィリスが、「野郎ども」の蔓延る中学校に侵入して、そこでどんな「反抗文化」が作られているのかを探った
12人の不良グループが主要登場人物
かなりリアルな発言がそのまま登場する
下品な表現、先生や他の生徒へのぐち、グループ内でのからかいやマウンティング
彼らが「耳穴っこ」(優等生ちゃん)と馬鹿にしているクラスメイトや、不良たちをどうにか学校制度に順応させようとする教員人、そして彼らが就職する先となる工場で働く人などへのインタビューも出てくる
彼らがどんなふうに関わり合っているのか?
こんな事を大真面目に研究するのは馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、社会全体の問題とこのミクロな学校社会での営みを接続している点が面白い
ポールウィリスが感じていた疑問
なぜ格差はなくならないのか?
イギリスの背景では、いわゆるブルーカラーとホワイトカラーの格差が問題だとされていた
民主主義社会では、仮に労働市場で「不利な階級」の人間が出来てしまっても、政府による再分配ができるはずである
また、そもそも教育が平等化されているのに、どうして下層階級の親のものに生まれた子供がまた下層階級に就てしまうのだろうか?
当時では、工場労働者を差している
ポールウィリスの立てた仮説
「学校への反抗、労働への順応」
彼らは、学校に反抗する中で、労働すること、労働者階級にとどまる事に順応する
なぜ彼らはグレるのか?そしてグレた後に、下層労働者として低い賃金で肉体労働をするような立場に甘んじるのか?
先生には反抗するし、犯罪さえするのに、なぜ労働には従順でいられるのだろうか?
この矛盾に見える構造は、学校で彼らが作り上げる「反学校の文化」の特徴によって生み出されている
学校への反抗によって作られた彼らの文化は、資本主義の階級社会に順応する事を選択してしまう
【9-2】酒、女、労働ー不良たちの反抗文化【ハマータウンの野郎ども】
学校という権威への反抗として何をするか?
酒、喧嘩、セックス、パブなど
授業をサボってタバコをふかしたり、女を自分のモノにできた事を自慢し合う、地元の安い遊びではなく、少し都会まで出てパブやディスコに行く
男尊女卑(主体者としての女性像はなく、客体化された性的対象がいる
女性についての会話は、あくまで「野郎ども側」の経験として語られる(ホモソーシャル的
関心の焦点は、女性側の経験や人格ではなく、性的な魅力のみが語られる
喧嘩は「いざとなったらヤレる男」であることを見せるために行われる
しかし、むやみやたらに暴力を振るう事は野郎どもの間でも嫌厭される
三大消費財(衣服、酒、タバコ
視覚的に周囲に自分の立ち位置を示すことができる
手っ取り早く「野郎ども」である事を示す
ディスコと消費財のためには現金がいる
バイトをして身銭を稼ぐ
ただ真っ向から反抗するのではなく、その過程も楽しみながら行い、教員たちをおちょくる
授業をサボるときはそれらしい言い訳を作る「ゴミ捨てに行ってきますわ」「ズボン乾かしてきます」
パブでバッタリ教員と会って気まずそうな教員に自分から挨拶し、翌日教員から注意されたときに挨拶しなくていいんですか?と返す、などなど
それらを経験していることを誇っている
クラスの優等生ちゃん、そして教員らも「生きることの楽しさを知らない連中」として退ける
楽しさだけではなく、そのために自分たちでバイトしてお金を稼いでいる、ということも重要
<対比> 規則に従っているつまらないやつ <-> 今を楽しめるおもろい俺たち
「勉強で得られる知識はくだらないものだ」
バイトでの経験や、(親父たちの)仕事に、机の上で文字を書いたりして得た知識は役に立たない
俺たちの方が本当に知るべきこと知っている」と考える
家庭での経験も、それを裏付けるものになる
労働階級の父親は、子供が優等生ちゃんになることをよく思っていない
とはいえ、子供が素直に父親に憧れるわけでもない、むしろ子供は父親をある種ライバル視する。それは「一家を支える大黒柱が男の使命だ」という男尊女卑的な価値観とも通底している部分がある
自分が優等生ちゃんたちに対して抱く「男として優っている感覚」は父親に対しては劣等感として現れる
この感覚は、就職のタイミングで学校から「さっさとおさらば」して、「本当の男の仲間入り」ができるというように楽観的に考える後押しをする
知識と労働、学校と就職先との関係認識における、下層労働者と中流労働者の対比
先に見たように、野郎どもにとって知識は何の役にも立たないものとして、実践の方が重視される
対して中流階級にとっては、知識は自分のアイデンティティを守るためのチケットである
中流階級の学校でも、「反抗グループ」は存在する
しかし野郎どもと違って、「知識は全部くだらん」というように、学校制度の全てに反抗する事はなく、部分的な反抗に留まる。簡単にいえば、学歴社会そのものへの反抗はできない(チケットであることを認めているから
この感覚は実体験としても共感できる。中学校ではテストの成績が良い人は、もはやバカにされる対象ですらあった。逆に大学以降で知り合った中高一貫校の友人は、勉強出来ないからバカにされる風潮があったらしい
工場労働者へ
親たちから、工場での労働の話について聞く
労働者階級の父親は、同僚とふざけたエピソード、マネージャーに反抗した武勇伝を繰り返し語る
それを野郎どもは、「学校とおんなじじゃん」と受け取る
結局、労働なんてどこでも対して変わらない、ようはみんな金が必要だからやってるだけだろ?
職場でも今(学校生活)と同じように、向こう側には、つまらない事を押し付けてくる「権力」がいて、それを上手くかわしながら、一緒にふざける「俺ら」がいるということ
しかし実際には、学校の権力と職場の権力は驚くほど違うのだが、それを野郎どもが就職する前に気づくことはない
職業は結局どれもくだらないということ、肉体労働の方が男らしいということ(クラスの優等生ちゃんが将来つくであろう鉛筆とか数字とかをいじる仕事は女みたいでいやだ)、の二つの論理から、むしろ肉体労働者になることを肯定的に捉える
実は工場の側からしても、野郎どもは都合がいい
優等生は、学校で教わる平等主義、成果主義、衡平性を素朴に信じている。いわば権力の側が道理に反する事をするのは理不尽だと感じるし、自分の成果が正当に評価されるべきだと考えている(それは学校の中だけだというのに)
権力よりも正義が押し通る(自分たちの正義が勝つ)こともありうると考える
対して野郎どもは、初めから「権力(あいつら)」と「自分たち(俺ら」の区別がしっかりついていて、それは逆転されない関係だというふうに諦めている
しかも、日々の不満は、「俺らでふざける」ことで勝手に解消してくれるし、弱音を吐いたり、権力のせいにするのは「男らしくない」からしてこない、とても扱いやすい人材である
【9-3】なぜ彼らは不良になるのか?ー学校と社会の胡散臭さへの洞察【ハマータウンの野郎ども】
彼らはなぜ・どうやって野郎どもになったのか?
入学した当初は、多かれ少なかれ「優等生ちゃん」と同じような行動をしていた
(当時のイギリスの中等教育は11歳から16歳まで通う5年制の学校である)
しかしそれが1年か2年経った頃には野郎どもになる
=> これは学校という空間と、そこに集まる、事によって独特な形で形成されてくる
例えばリモート教育とかで、同じリアルな場所に集められなかったら、そうはならないのではないか?ということが言える
そもそも学校が生徒に遵守せよと求める規範とはどのようなものか?
「尊敬のみかえりに知識を、純脳の見返りに指導を」
知識は素晴らしいものだと考え、それを教えてくれる先生を敬う、そして人生の先輩でもある先生に指導してもらうことをありがたく受け取るべきだ、というのが学校が前提にするルールである
そしてみんなの努力は公平に評価され、頑張った人が報われて、将来幸せになれます
野郎どもの「洞察」
洞察 = ある文化の中で働いている(特に明文化されていないような)ルールを見抜く
野郎どもからの異議申し立て(素晴らしいことみたいに言っているけど本当は?
彼らは直接に言語化こそしないものの、学校文化の「胡散臭さ」に気づいているのではないか
3つの洞察
1. おしつけられた不平等条約への洞察
学校制度が求める「取引」を洞察する
学校は彼らに順応と服従を求め、その代わりに知識や成績を与えるとしているが、服従に含まれるものは、「今を楽しむ権利」の放棄であり、何かに熱中することの放棄でもあり、自律性の放棄でもある
人間として大切なものと、役に立ちもしない知識の交換に応じるわけにはいかない
ブルデューは、成績や資格というものは「制度化された文化資本」であって、支配階級が支配階級に居座るための正当性を与えているに過ぎないといっている
成績や資格が、実際の仕事の役に立たないことを、彼らは見抜いている
2. 転倒した労働、資本主義の根本への洞察
産業主義で行われる労働の虚しさへの洞察
結局みんな自分が素晴らしいと思うことのために働いてないじゃないか
職務を生き甲斐にするなんて、馬鹿馬鹿しい。結局どれも同じ「金のため」ではないか、と
ここでポールウィリスはマルクスを引用し、現代の仕事はその内容よりも、どれほど資本的なリターンを得られるかの方に重点が置かれていることを指摘する
3. 個人主義と集団主義の矛盾への洞察
「努力するものはみんな報われる」と学校は教えている。しかしそれは案に「勝ち組と負け組がいること」を肯定するような論理である
この胡散臭さを、反学校の文化はよく見抜いている
ある意味で、本当に「仲間を大切に思う」ならば、自分が勉強して個人主義的な論理の中で周囲を出し抜いてやろうとは思わないのではないか?
端々から見える胡散臭さ
教員が時折見せる、労働者階級をバカにしたような話し方
「そんなんじゃ将来、安月給で働くしかないぞ」 => 今そういう立場で働いている人はどうなんだ?
自分らしさを尊重します、と言いながら結局一つの指標で測ろうとする学校
人格テストとかをやって「相性のいい将来の仕事」を探そうとするが、結局は自分の希望を後押しするのではなく、身の程をわきまえさせようとしているだけなんじゃないか
進路指導での物言い
「君が自分自身の身を立て直そうと思ったら、私もそのための助力を惜しまない」「君の一番の敵は君だ」
まるで、助けたり助けられたりする一つの人格を内包しているかのようだ
このように、制度に順応した人格が「本当の・あるべき人格である」かのような言い分に、生徒はなおのこと腹を立てる
彼らは仲間と話していくうちに、こういった心の中で感じていた違和感を、他にも感じている人がいるということに気づく
(俺たちの人生を取り戻せ)~> 野郎どもが形成
【9-4】子供に読ませるなら桃太郎より刃牙(?)ー女性蔑視と自己責任論に傾倒する反抗文化【ハマータウンの野郎ども】
野郎どもが跳ね除けられなかったイデオロギー
まず、分業と階級があるということ、そして分業には男と女という性的な区分があるということを疑わずに信じる
楽な仕事についている人もいれば、そうでない人もいる、ということを当たり前の事実として受け止める
ポールウィリスは、学校教育を特に強調しているが、テレビなどのメディアの影響も大きいだろう
桃太郎ですらそうである。まず男は家から遠くに行って稼ぎ、女は家事をする、ということ。そして男は危険に身を晒してこそ一人前になるというストーリー(しかもやっていることは暴力である)
「働かざる者食うべからず」
報酬は成果に応じて決定される、ということは半学校の文化においても疑われていない
能力のない人間は抑圧されても仕方がない、という発想が根付いてしまう
あるいは、体制に従った分だけ、良い成績(良い報酬)がもらえるという発想に繋がる
逆に言えば、「俺たちは体制の言いなりにならないから、給与が少なくても仕方がないかな」という納得に繋がる
先に述べたように、労働者階級にとっては学校と工場は同じような場所として認知されている
野郎どもがむしろ自分たちで強化した価値観
女性蔑視
野郎どもの自負心は、男性優位の意識を拠り所にしている
女を客体化し、「女を落とす」という表現を好んで使う
女は適度に性的魅力を持っているべきだが、ビッチ(浮気女)ではダメ。逆にビッチに飼い慣らされるような奴は男らしくない
常に性体験において男性の方が優位に立ってリードし、時には酷い扱いすらできるような男が称賛される
行為や仕事も、男っぽいか、女っぽいか、に二分される
言葉を使ったり、数字を使ったりする「事務の仕事」は女の仕事だとみなす
危険な仕事をやり遂げて、一家の大黒柱になることが称賛されるのは「それが女には出来ない」と思っているから
優等生ちゃんへの悪口に、玉なしとか、オカマとか、女みたいなやつ、というのはそういう女性蔑視的な観念がある
精神的活動の前面否定
男っぽい行為と女っぽい行為という軸にのせる考え方が「手足を動かして稼いでいる人間」と「頭を使って稼いでいる人間」に二分する考え方を生み出した
「なぜ全ての人は、給与が良くて楽な仕事を望む」のではなく、重労働で給与の低い仕事を選ぶ人間がいるのか?
彼らは能力主義の論理(能力の高い人ほど給与のいい職につける)に同意して、それでも自らの地位に甘んじているわけではない(素直に、自分はバカだから…能力が低いから、とか思っているわけではない)
むしろその精神労働・肉体労働の価値規範を逆転させることによって、彼らは肉体労働に喜んで参加する
もし彼らが、進んで下層労働の地位を選んでいなければ、絶え間ない階級闘争や物質的強制が働くことになる
「俺ら」は自律した男である
進路指導では個人主義を推し進めるような問答がくり広げられる「就職先というのは、君一人の努力と選択で勝ち取るしかないんだ」などと
実際、学校の卒業が近づいてくると、野郎ども同士の会話にも次第に「個人主義的な発想」が広まってくる。各々
これは暗黙のうちに、個人の判断次第で仕事を選べるのだという観念を植え付け、今の社会構造全体を疑うことから目を背けさせる効果がある
体制を否定するのではなく、自分の立ち位置を変えればいいじゃないか、ということになる
いってみれば「自己責任論」である。自己責任論を認めるのは、むしろ自分の能力に自身があるもの、自立や独立を信仰している者である。そしてこれは反学校の文化と相性がいい
そして「自分たちは自律しているんだ」と思い込むことによって、まさしく自分たちが実は誰かによって支配されているのではないか、他の抑圧されたものたちと手を取り合えば状況が改善するんじゃないか、という発想に至ることを抑圧している
自分たちが「独自」である「例外」であるという発想は、同じような境遇の人たちと協力するという発想を遠ざけてしまう
「体制の論理」から外れる事を自律だと捉え、それゆえに「理想のライフコース」をくだらないものみなして拒絶する
そんなものは「体制に従う女々しい優等生ちゃん」にやらせておけばいい
結果的に、彼らは自分たちが下層労働者というポジションに収まることを肯定し、自らそれを選択する
【9-5】現代の学歴社会、本人の選択なら格差は問題にならない?…など(雑談会)【ハマータウンの野郎ども】
主観的に幸せならそれでいい、のか?
学校という場所は格差を再生産している?
ポール・ウィリスはマルクスの考え方の限界も指摘しているが、同時に資本主義的生産様式を批判的にも描いている